
武将御用達の温泉
Lesson2-2で、豊臣秀吉が有馬温泉を幾度となく訪れたことを解説しましたが、
そのほかの武将たちもまた、温泉を利用したという記録が残っています。
武田信玄
戦国時代の武将である武田信玄は、温泉の治癒力を認め、
戦いで傷を負った兵の養生と静養に温泉を利用しました。
武将の中でも武田信玄は、
「信玄の隠し湯」とされる温泉が多いことで知られています。
隠し湯とは、武将が独占的に使用した温泉のことですが、隠し湯の共通点としては、
一般にあまり知られていない入場者が少ない温泉であったり、
行くのに不便な場所、例えば奥まった場所にある温泉であることです。
「信玄の隠し湯」として有名な隠し湯の一つが、山梨県にある下部温泉。
甲州はもともと高温の温泉が少なく、泉温が低い温泉が多いのですが、
このぬるめのお湯が長時間の入浴を可能にし、
よりリラックス効果を得ることができます。
また傷や骨折といった、外傷の回復にも役立ちました。
このような温泉は「傷の湯」とも呼ばれたそうです。
その他、「信玄の隠し湯」とされるのは以下の通り。
- 川浦温泉(山梨県)
- 積翠寺(せきすいじ)温泉(山梨県)
- 甲府湯村温泉(山梨県)
- 増富温泉(山梨県)
など。
徳川家康
1603年(慶長8年)徳川幕府を開いた家康は、
翌年、京都に向かう途中で熱海に逗留したとの記録が残っています。

家康は熱海での湯治に大変満足し、
地方にいる大名に熱海の湯を送るなどしました。
そして要人たちにも、熱海で湯治することを勧めたと言います。
家康が温泉の汲み湯を配送し始めると、これを手本に、
熱海まで行けない将軍のために温泉の湯を江戸城まで運ぶ「御汲湯(おくみゆ)」
が始まりました。
この「御汲湯」のおかげで、熱海は将軍御用達となり、
江戸で熱海の湯の需要を生み出すこととなります。
例えば熱海の湯を湯樽に詰めて「湯薬」として、
江戸で販売する商いが生まれました。
そして徳川家が推奨した熱海には、
多くの大名たちが湯治を目的として訪れるようになりました。
こうして江戸時代の温泉文化が、徐々に花開いていくととになったのです。
温泉文化が花開いた江戸時代
日本では古代より、庶民も温泉を利用していたと考えられますが、
記録に残っているのは時の権力者の記録や、紀行文や歌などがほとんどで、
その中から庶民たちの温泉の楽しみ方を知ることは、ほぼ不可能でした。
しかし、江戸時代以降はそれが変わっていきます。

温泉の記録
江戸時代に入り平和な時期が長く続く中で、文化水準が上がり、
一般の人々も絵や文章で自分の温泉体験の記録を残すようになりました。
例えば、箱根温泉の「七湯のしおり」が1811年(文化8年)に刊行されていますが、
これは文章と絵で箱根七湯の案内を記したものです。
この「七湯のしおり」はすばらしい内容で、
湯宿や入浴方法、効能、さらに周辺の景観や名所旧跡案内なども含まれ、
それが絵図でわかりやすく解説されています。
湯治文化
そして忘れてはならないのが、「湯治」の文化です。
江戸時代にこれほど全国で温泉文化が栄えたのは、
「湯治」が理由の一つに挙げられます。
湯治に関する文献もあり、例えば福岡県黒田藩藩医・貝原益軒(かいばらえきけん)が
1713年(正徳3年)に著作した「養生訓」では、
温泉の効能や入浴回数、そして湯治中の食事の仕方などにも触れています。
1738年(元文3年)に著作された「一本堂薬選続編」でも、
効能や入浴回数、禁忌事項、入浴方法などが記されています。
またその中には、日本全国の温泉地名一覧もあり、
その由来や効能もまとめられており、このデータが後の温泉番付などにも
参照されていると考えられます。
このように江戸時代では、庶民の間で「湯治」が広まるとともに、
温泉に関するさまざまな情報を見聞きする機会もあり、
温泉文化が花開いていきました。
そして温泉の独自性は各地域で生まれ、多様化していったのです。
Lesson2では、温泉の発見と歴史、そして現在の温泉に至るまでの変遷について
解説しました。
歴史を垣間見ると、
温泉がより身近に感じられるようになるのではないでしょうか。
現在の温泉形態は江戸時代ごろより続くものであることも、
理解できたことと思います。
温泉から見える風景を、
もしかしたら昔の人々も同じように眺めていたかもしれませんね。
Lesson3では、「温泉の分類」について学んでいきます。